第25回 政党政治の発達と大正文化


◎第1次世界大戦頃の経済の様子をつかむ

第1次世界大戦中は、空前の好景気。戦後は不景気で関東大震災(1923,9,1)が追い打ち。

輸出超過→工業の発達→好景気→戦争終了→不景気

大戦中は欧州は工場が破壊され、様々な製品の注文が日本に舞い込んできて好景気になった。ところが、大戦が終了すると各国は立直りはじめ、すぐに日本は不景気に突入した。そして関東大震災。社会不安が増幅し、在日韓国人が井戸に毒を投げいれたと噂が流れ、韓国人を殺すという事件が発生した。話は前後するが、戦時中は戦争成金といって、お金に火を付けて明かりの代わりにするとんでもない奴が幅を聞かせていたが、彼らの全盛期は以外と短かった。また、日本軍はソ連領の一部を占領してしまおうと企み、シベリアに出兵したまでは良かったが、これにより米騒動が発生した。この責任をとって、当時の内閣である寺内内閣は退陣した。そして原敬が登場するのであった。


★KEY-POINT


◎いろいろな社会運動が盛んになる

不景気、工業の発達から労働者の増加、ロシア革命の影響、世界的な民主主義の風潮の高まりなどで、日本でも社会運動が高まる。

  1. 労働運動…労働争議。1920年に第1回メーデー。
  2. 農民運動…小作争議。
  3. 婦人開放運動…平塚雷鳥ら、参政権を要求。
  4. 部落開放運動…全国水平社(1922年)。
  5. 社会主義運動…日本共産党(1922年)。

◎政党政治と普通選挙が行なわれるようになる

  1. 第一次護憲運動…当然第2次護憲運動がある。この第1次は、国民側にたった政治をめざした西園寺内閣が軍部の反対で退陣し、その後に成立した桂太郎内閣が専制的な政治をしたことに端を発する。この内閣に不満をもった尾崎行雄と犬養毅らは護憲運動をおこし、桂内閣を倒した。ということなのだが、きっと護憲運動という言葉の意味がわからないと思うから解説しちゃおう。大正時代になっても政治の実権を握っている連中は薩長土肥の藩閥の者か軍閥の者に限られていた。これに対する不満が本当の立憲政治を実現しようという護憲運動になって発展したのである。
  2. 1918年、米騒動で、官僚中心の寺内内閣が退陣。

★KEY-POINT

  1. 第2次護憲運動…護憲3派(憲政会・立憲政友会・革新クラブ)が普通選挙などを主張し、総選挙に勝利→憲政会の総裁加藤高明を首相とする政党内閣が成立(1924)→以後、五・一五事件まで(〜1932)、政党内閣が続いた。

★KEY-POINT


◎大正時代の文化

国民の民主主義を求める運動である大正デモクラシーが盛んになったため、市民の文化が繁栄した。また一方で資本主義の発達により、社会問題が表面化し、文化に大きな影響を与えた。さらに、義務教育の就学率もようやく100%近くになり、学問や科学が一般の人々に広まり、近代科学が発達した。

文学ではまず、人道主義の立場から人間の幸福を追求した白樺派がでた。志賀直哉・武者小路実篤・有島武郎ら。現実社会の知性に基づいて見極めようとする新潮派では、芥川龍之介・菊池寛らがいる。社会主義運動の高まるなかで労働者・農民の生活を扱ったプロレタリア文学では、小林多喜二・徳永直らがいた。

彫刻では高村光太郎が、演劇では小山内薫が築地小劇場を作り新劇の発展に尽くした。1925年には、都市での近代化や電化が進み、ラジオ放送が開始された。

◎おまけ

吉野作造が主張した民本主義とは、普通選挙や政党内閣をしろというもの。大正デモクラシーの流れを強めた。


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