第18回 開国と幕府の滅亡


◎アメリカとロシアが鎖国「日本」に急接近!!

 1792年、時代は松平定信の寛政改革。根室にロシア船が来航した。目的は日本人漂流者大黒屋光太夫らを日本へ送還し、ついでに日本とも国交を開こうというものであった。この時のロシア側の使節はラックスマンであった。鎖国をしている日本としては国交は開けない。そこで老中松平定信は、「国書は受け取らない。江戸への来航も許可しない。ただし、漂流民は受け取り、その労はねぎらう。通商の望みがあるならば、改めて長崎へ来るがよい。」と言って追い返した。こう言われては仕方がないと、ラックスマンは漂流民を置いて帰国した。そして、今度はレザノフが長崎に来た。ところが運悪く、松平定信は罷免されていた。開国したくない日本はこれを口実に、「罷免された人のしたことは知らないよー」と、レザノフを体よく追い払った。この一件以降、日本は鎖国を維持する方針を固め、又、英国軍艦フェートン号が蘭船捕獲のため長崎に侵入するという事件があったりしたので、もし外国船が来航した際は、清・蘭以外の船は二念なく(ためらうことなく)撃退することを命じた。これを異国船打払令(無二念打払令)という(1825)。この12年後に、アメリカのモリソン号が浦賀に日本人漂流民を連れて来航したのだが、幕府は大砲を撃って追い払った。これをモリソン号事件というのだが、この事件に対して、蛮社などといわれる蘭学者のグループに属していた高野長英は「戊戌夢物語」を渡辺華山は「慎機論」を著し、幕府の対外政策を批判した。これに怒った幕府は、長英や華山の弾圧に動いた。これを蛮社の獄という(1839)。

 ところで、なぜロシアとアメリカは日本に接近したのか。ロシアの方はややこしいから省略するが、アメリカは説明しよう。まず、学校で習うのは「太平洋で油をとるために捕鯨をしていたが、その中継基地として日本に来た」というもの。そしてもう一つは教科書にもあるが、対中国貿易の中継基地という考えである。

 このあと、清でアヘン戦争が起きた(1840)。清が敗れ屈辱的な条約を結ばされた報にショックを受けた幕府は、外国船に対しては食料・薪を与えてすみやかに退去してもらう趣旨の「薪水給与令」をだすことになりました(1842)。

◎幕府独裁政治の破綻、そして開国へ

 以前からオランダ商館を通じて情報を得ていたのだが、本当にアメリカからペリー提督が四隻の軍艦(通称黒船)を率いてやって来た。当然、幕府に開国を迫りに来たのである。ペリーは艦隊の全砲門を開いて、国書をこの地(浦賀)で受理しないのならば、江戸へ乗り込み将軍に直接談判する。それでも駄目なら「すみやかに一戦に及び勝敗相決し申すべし」と威嚇した。しかし幕府は返答を翌年にのばすことに成功した。と思ったのも束の間、ペリーが再び来航し、神奈川(横浜)で日米和親条約(1854)を結んだ。ここに日本は事実上開国した。幕府はこれまで、外交のことは大名にも天皇にも知らせずに完全に独裁してきたが、ペリー艦隊に脅迫されるとすっかり自信を失い、諸大名と幕府役人に対策を諮問し、また、天皇にも報告した。それだけでなく、一般市民にも意見を述べさせた。時の老中阿部正弘は諸藩と一致協力の政策をとり国難を乗り切ろうとしたが、志し半ばで病死し、開国反対・保守派の大老井伊直弼の登場となる。彼はアメリカのさらなる脅迫に屈して、日米修好通商条約(1858)をアメリカ総領事ハリスと、朝廷の許可(勅許)を得ないまま結んだ。さらに彼は彼に批判的な敵対勢力に対して、その勢力を一掃する安政の大獄という恐怖政治を強行した。この安政の大獄で犠牲になった当時一級の人材は、橋本左内・吉田松陰らであった。この他にも、井伊直弼は自分に有利になる将軍の後継ぎも決めるなどやりたい放題であった。しかし、この井伊にも天罰?が下ったのである。安政の大獄などのために井伊は反感をかってしまい、江戸城桜田門外で水戸・薩摩の浪士に殺されたのである(桜田門外の変)。


★KEY-POINT


だいぶ先の話になるが、とっても大事なことがある。それは、不平等条約の治外法権が撤廃されたのは日清戦争直前の1894年、関税自主権の撤廃は日露戦争後の1911年であるということ。

◎大迷惑の海外輸出!?

 開国の影響で、国内の生糸や茶の輸出が盛んになった。しかし、これらは日本人の生活必需品であり、国内における在庫不足から市民の生活難が深刻になった。また、国外では金が、日本では銀が重宝されていたために生じた、金銀の交換比率の差から、国内の金が海外に流出し、国内経済が混乱し、民衆や下級武士の生活が苦しくなり、尊王攘夷運動の基盤が形成されていくことになる。

◎尊王攘夷論の台頭

 尊王論(天皇崇拝思想)と攘夷論(外国人排斥運動)とが幕藩体制の動揺と外国の圧迫という危機に結合して大きな潮流を形成。尊王攘夷をもっと簡単に言うと、天皇の下における幕府諸藩の挙国一致を実現し、外国に屈しない日本をつくろうとしたものである。これは、開国による生活苦や、アジア諸国の植民地化の情報が国内に与えた影響の結果と受けとめられる。一方、これに対抗する論を公武合体論という。これは、幕府側の勢力が中心で、天皇の妹を将軍の嫁にすることで、朝廷と幕府を一つにして政局を安定させようとしたもの。だが、尊王攘夷論の前にはその影響力を発揮することはなかった。さて、尊王攘夷派の具体的な動きでは、生麦事件がある。これは、日本人の食べる麦をイギリス人が横取りしたことに怒った武士が殺害をした、というのではなく、生麦という場所で、英国人が大名行列に対し土下座をしなかったことに怒った薩摩藩士が、英国人を殺害した事件。そして、長州藩外国船砲撃事件というのもある。下関海峡を通過しようとした外国船に砲撃した事件。さらに、薩摩藩とイギリスが戦火を交えた、薩英戦争というのもある。長州藩も薩摩藩も、この事件で外国に対抗するだけの戦力が国内にないことを知り、以後急速にこの二藩は接近して、倒幕運動へと傾斜していくのである。

◎勝海舟から西郷隆盛へ、「幕府を倒せ」

 尊王攘夷派の長州と公武合体派の薩摩は当初は敵対関係にあり、蛤御門の変などで対立があった。しかし、薩摩の西郷隆盛ももはや攘夷をする気もないし、長州と敵対したのは君主の命を受けていただけで、実際は長州と同じく倒幕への道を進もうとしていた。これをチャンスとばかりに、土佐の坂本竜馬は、長州と薩摩の同盟を結ばせることに成功し、倒幕運動が始動することとなった。

 さて、このころの民衆はどうしていたのか。開国による生活苦に悩む民は、もはや幕府の政治をあてにはしておらず、幕府に代わる別の政権の登場を待ち望んでいた。そのため、世直しを唱える百姓一揆や打ち壊し、そして「ええじゃないか」といって踊り叫ぶ騒ぎが全国で流行した。

◎坂本竜馬の「船中八策」が江戸幕府のピリオドに

 「船中八策」のなかに「天下ノ政権ヲ朝廷二奉還セシメ、政令宜シク朝廷ヨリ出ズベキ事」とある。これは、政治の実権を朝廷に返還し、政令は朝廷よりだそうというもの。これを土佐藩主が、もはや民衆からも見離されている将軍に、建白の形で提出し採用された。将軍は、政治の全責任を負うのはいやだが、今後も政治の中心にいようとして、政治の実権を朝廷に奉還(返還)したつもりだった(大政奉還)。しかし、薩長同盟の前に敢えなく敗退し、一大名に成り下がってしまった。ここで、700年続いた武家政治が、260年続いた江戸幕府の歴史にピリオドが打たれた。大政奉還後、新政府が樹立されたが、その新政府は徳川氏の所有する領地を全部だせと迫り、これに反発した元幕府の家臣(幕臣)との間で衝突が始まった。まず、京都周辺で鳥羽・伏見の戦が、新政府側の西郷隆盛と幕臣の勝海舟の話し合いで決定された江戸城明け渡しの後に起きた、上野彰義隊の戦、百虎隊で有名な会津藩の抵抗、そして函館五稜郭の戦を経て、新政府の勝利を以て終結した。


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