第16回 ヨーロッパの近代化と産業革命


◎「絶対主義国家」と資本主義の始まり〜重商主義

 貴族が国王の権限を制約していたのが封建制度であったが、貴族の力ではもはや農民を統制できない時代がやってきた。そこで、個々の貴族の力をまとめるものとして王権に貴族たちが頼るようになり、国王が絶対的な権力を握るようになった。これが絶対主義と呼ばれるものである。この絶対主義の思想的裏づけとなったのが王権神授説である。これは「国王の地位と権力は神から授けられたものであるから、人民はこれに対し、絶対に服従しなければならない」というものである。この絶対主義は、貴族に対しては封建制度時の特権を一部残し、農民には租税供給源として保護したため、当初は国民的な支持を受けていた。また、絶対主義時代において、国王は国内の産業を保護し、植民地を得て、製品を売り、原料を安く手に入れ、輸出を増やして輸入を減らすことで莫大な富を得、軍隊と官僚を養った。これを重商主義といい、資本主義の基礎が築かれた。しかし、この絶対主義も、農民や一部の大商人以外の市民階級が、自分たちが抑圧されていることに気付くことで終焉を迎えるのであった。

 この絶対主義の歴史的意義をみてみよう。単に重商主義という資本主義の基礎を生み出しただけでなく、民衆に国という概念を与え、国民という連帯感を生み、国語の確立・国民文学などを生み出すことになったのである。


★KEY-POINT


◎前代未聞の、国民による国王処刑!?

 ここから、時代の主人公となる「市民階級」と呼ばれる人達について解説しよう。ブルジョワジーともいわれる市民階級は、16世紀のイギリスで誕生する。中小の商工業者は突如として、小作農の土地を垣根で囲い込み、農民を追い出して羊牧場にして利益をあげた。この事件を囲い込み運動というのだが、これ以降一部の地主・富農・中小の商工業者の多くが工場制手工業の経営者となり、産業を担う資本家として社会の中産的な階級となっていった。このような中産階級を市民階級というのである。

 1600年代には、すでにイギリスには議会があった。国王も本来はこの議会の決定に従わなければならないのだが、チャールズ1世は議会を無視した政治をしていた。それにむかついた議会と国王との対立は当然の流れであり、その後イギリスは内戦へと突入する。議会派はクロムウェルを指導者として国王軍を破り、国王を裁判で「専制君主」「反逆者」として死刑を採決し、斧で首をはねて処刑した。当時はまだ、王権神授説の全盛期であったので、国王を処刑するという事件はかなりの衝撃を欧州に与えたと想像される。この事件は、議会派が清教徒が中心となっていたため、清教徒革命(ピューリタン革命:1642〜49)と呼ばれている。

 クロムウェルは共和制を敷いたのだが、結果的には国王の代わりにクロムウェルの独裁政治をするという色彩が強くなり、嫌われ者となった。彼は死後、墓から死体を掘りおこして絞首台にかけられるという嫌われ様であった。とにかく、イギリスは彼の死後、王政を復活させた。ところが、ジェームス2世はまたもや国民から反感をかい、議会はオランダから新しい王を招き、ジェームス2世をフランスに追い出してしまった。この事件は、双方に血が一滴も流れなかったため、無血革命(1688)と呼ばれている。このオランダから来た王は、「権利の章典」という議会の権限を規定した法律みたいなものを発布した。こうして、責任内閣制の基礎ができ、現在に至る「国王は君臨すれども統治せず」という原則ができたのであった。

◎イギリス領アメリカの独立

 植民地はどうして作られたのか。イギリスにおいては、囲い込み運動のために土地を失った者を植民地に移し、本国産業に必要な原料を生産させ、本国の製品を売り付けるためであった。そして、その植民地の中の一つが、アメリカであった。

 アメリカへ移住してきたのは、土地を失った農民や、商人、そしてメイフラワー号に代表される清教徒たちであった。彼らはイギリス本国から、フランスとの植民地戦争での戦費の負担やイギリス製品の強制買取を義務付けられたため、本国との対立を深めていった。そして武力対立に発展した(独立戦争:1775~83)。植民地軍はワシントンを総指揮官として、主にやる気のない傭兵で構成されていた(農奴が主体だったから)本国軍を破った。そして、開戦直後にだされた「独立宣言」をもとにその後の政治が進められるのだが、ここでは宣言の内容に注意しなければならない。「全て人間は平等で、生命・自由・幸福を追求する権利や圧政に対する革命権を持っている」というものだが、ここで言う人間とは白人を指していることは、過去と現在のアメリカをみれば明白なことである。まぁ、そんなわけでアメリカはアメリカ合衆国憲法を定め、ワシントンを初代大統領に選んだのだった。

◎時代の主役の交替「フランス革命」

 フランスでは、人口の9割8分を占めていた第3身分と呼ばれる農民と商人が封建制の下で、重税に苦しんでいた。しかし、これらの税だけでは財政が賄えない程、フランス財政は窮乏していた。そこで、第1・2身分の僧と貴族にも課税しようとしたら大反対をうけ、また、第3身分は国民議会をつくり憲法制定を試みて王の譲歩を引き出したが、王は裏切ってこれを武力で抑えようとしたため、市民の一部が武装し専制政治の象徴であったバスチーユ牢獄を襲撃した。アメリカ独立運動の結果を知っていた民衆は勢いに乗ろうと各地で蜂起し、フランス革命が始まった。一方、第3身分で構成される国民議会は「人権宣言」を議決した。「人間は生まれながら自由で平等な権利を持ち、主権は国民にあり、私有財産は尊重される」などが主な内容である。この結果、革命指導者による反対派の恐怖政治の始まりと同時に、農民の多くが土地所有者になるなどの恩恵を受けたのだが、そのとたんに国民議会の支持層が保守化し、いつしか革命の勢いは消えようとしていた。

 フランス革命で王が処刑されたことを知った欧州各国は、対仏大同盟を結成し、フランスと対立していた。このさなかフランス国民は、外国の侵入を阻止し、王政復古を阻止できる指導者を待望していた。そして、その理想的人物が、軍事的天才と評されるナポレオンの登場である。彼は政治的な側面では「ナポレオン法典」という、個人の自由・法の下の万人の平等・私有財産の不可侵・契約の自由・家族の尊重などを体系化したものを残し、その後の各国の民法に大きな影響を与えている。また、軍事的側面では、欧州大陸をフランスの植民地にすることと、フランス革命の精神をヨーロッパ各国に広める戦争をし、民衆に歓迎されることもあった。しかし、ロシアとの戦争に敗れると同時に、フランス革命の影響で民族の自我に目覚めた各国はフランスからの独立のために立ち上がり、ナポレオンは失脚した。


★KEY-POINT

イギリスの革命
清教徒革命…1642〜49年。クロムウェルが国王を処刑。
名誉革命…1688年。権利章典を発布。
アメリカ独立戦争
1755年。翌年に独立宣言。
フランス革命
1789年。人権宣言。  
1804年。ナポレオンがフランスの帝位につく。

以上の市民革命に影響を与えた思想家達を紹介しよう。まず、アメリカ独立戦争では基本的人権を説いたロックの思想「市民政府二論」が、フランス革命では人間の自由と平等を説いたルソー「社会契約論」が、三権分立を説いたモンテスキュー「法の精神」がそれぞれ影響を与えている。

◎人々の生活を一変させた産業革命

 産業革命を最初に達成したのはイギリスであった。では、産業革命とは、そもそも何を意味するのだろうか?その答えは★生産の仕組みが小規模な手工業から動力と機械を使う大規模な工場制機械工業に変わり、それにつれて社会の構造や経済が大きく様変わりすることを意味するのである。では次に、なぜイギリスが最初なのか?この答えは★1:植民地と奴隷制、そして早くから工場制手工業の発達によって資本が蓄積されていて、2:いち早く市民革命が達成されていて産業の自由な発展がはかられていた、3:たくさんの植民地という製品の市場があり、4:国内に鉄・石炭という資源が豊富であった、5:囲い込み運動によって土地を失った農民が労働者となったからetc…という理由が挙げられる。

 産業革命はまず、原料の輸入の手軽さと機械化が簡単だった綿工業の分野からスタートする。そこではカートライトが発明した力織機や、機械の動力や輸送機関の動力にも応用されたワットの蒸気機関が大活躍をした。これらの発明で人々の生活が豊かになるように思えたが、実際は子供や女性までが労働者として働かなければ生活していけないほど賃金は安く、しかも1日に18時間労働という苛酷な条件下で、平均寿命が15歳という有様であった。

 こうして、工場を経営する資本家が、労働者を雇い入れて生産を行なわせるという資本主義の仕組みが成立した。このような社会を資本主義社会という。現在の日本もこれである。この資本主義がもたらしたのは、都市への人口集中や、婦女子の労働問題・低賃金長時間労働・失業問題などの社会問題を生み出す元凶となった。


★KEY-POINT

工場制手工業△機械・動力機関の発明△工場制機械工業△資本主義経済の発達
こうした生産方法や社会の変革を産業革命という。

◎奴隷を解放する気は全くなかったアメリカの南北戦争

 アメリカの南北戦争について、学校の先生は必ず以下のように授業をするはずである。「南北戦争はなぜ起きたか。その前、アメリカでは黒人奴隷は牛馬のごとくコキ使われていました。奴隷牧場までありました。リンカーンは黒人奴隷をかわいそうに思い、奴隷を廃止しようとした。が、南部は奴隷制廃止に頑強に反対していたので南北戦争が起きたのでした……。」と、こんな具合にである。しかし、アメリカでは、この南北戦争を奴隷開放の戦争とはみなしていない。では、アメリカの学校ではどう教えられているのだろうか。簡単に言うと、「南部では綿花の生産が、北部では工業が盛んだった。南部の人は、アメリカ全土で綿花を生産してイギリスに輸出すれば、みんな儲かると考えた。ところが、それを実行したら、産業革命を達成しているイギリスに北部の工業は絶対に負けてしまう。だから、北部の人は怒って南部と衝突したのである。ここで、北部の人達はなぜ南部で綿花の生産が盛んなのかを分析してみました。そして、わかったことは南部には奴隷がいる。奴隷のおかげで安く生産できるのだ。逆に奴隷がいなくなれば、南部はおとなしくなるだろう。ならば奴隷を解放しちゃえ!!ということで、リンカーンは奴隷開放をスローガンにして戦ったのでありました。」ということになる。奴隷開放は、実はおまけだったのである。だから、リンカーンは南北戦争が終結しても公約の奴隷解放令はなかなかださなかったのでありました。だって、リンカーンは奴隷制はいけないことだとは思っていなかったから。しかし、テストのときには、リンカーンはとってもいい人だということにしておこう。


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