第11回 安土・桃山時代


◎まず鉄砲、続いて、キリスト教が伝来

1543年、ポルトガル人が日本に着いたことは前回の授業で勉強した。しかし、調べてみると、ポルトガル人は、実は中国船に乗っていたところ遭難して種子島に漂着したらしい。そして、種子島領主種子島時堯に謁見し、その際鉄砲二挺を譲り渡した。偶然というのは恐ろしいもので、種子島は鉄の島であった。現在でも種子鋏として島の特産品となっているが、浜の砂鉄を使った製鉄業が既に発達していた。時堯は一挺を分解させ、島の鍛冶師に複製品をつくらせてしまった。この鉄砲がその後本土に伝わり、戦国の合戦そのものを変えてしまったのである。

一方、キリスト教だが、ポルトガルは植民地支配を武力による支配から、キリスト教による教化策へと政策を転換し、イエズス会に布教を要請していた。その延長に、日本があったらしい。

さて、日本では鉄砲の複製が完成していたが、それでもポルトガルからの鉄砲を含めた武器及び弾薬はとっても魅力であった。そこで、大友宗麟を筆頭とする大名は、自らキリシタンとなり、領内での布教を許可する代わりに軍事物資を得ていた。こうして、ザビエル等の布教活動は順調に出発するのであった。

こうしてポルトガル、そしてスペインとの貿易が始まった。これを南蛮貿易という。ヨーロッパで発明された活版印刷術や、外科手術、南蛮文化が伝わった。ここまでは、実に平和に交流が進んだように見えるが、ポルトガル側には宣教師から、「日本の海軍力は非常に弱い。簡単に四国・九州は奪える。」との報告を得ていた。ここからも、少しは日本を植民地にしようとしていた意志がうかがえる!?秀吉・家康がどこまでこの意図を見抜いていたかはわからないが、キリスト教の弾圧は結局としては、ポルトガルの軍事的進出を阻止した働きをしていたといえる。

◎織田信長の「統一への道」〜「天下布武」

織田信長は「桶狭間の戦い」で、時代の表舞台に登場する。駿河の今川義元を破った戦いだ(1560)。その後、足利義昭を第十五代将軍にした。しかし、いずれは義昭を追放して自分が頂点に立とうとしていた信長と義昭は対立し、1573年に、義昭を追放して、室町幕府を滅ぼした。この後に、義昭側だった武田信玄のあとを継いだ甲斐の武田勝頼と、1575年、長篠において鉄砲隊を用いて破った(長篠の戦)。そして、近江に天守閣を持つ安土城を築き、一方で、世界に知れ渡っていた自治都市「堺」の自治権を奪った。その次は、石山合戦。「信長に対しての戦いに立ち上がらぬものは破門に処す」という檄に呼応した一向宗(浄土真宗)と信長は、十一年間にわたり戦い、信長の皆殺しにあっている。また、比叡山延暦寺(天台宗)もだいぶ前だが焼き討ちされている。こうして敵を撃破してきた信長も、家臣の明智光秀の謀反にあい、帰らぬ人となった(本能寺の変・1582)。


★KEY-POINT

  1. 1573年、足利義昭を京都から追放して室町幕府を滅ぼす。
  2. 楽市・楽座…座を廃止して、自由な販売・営業を許可した。
  3. 仏教勢力に対抗するため、キリスト教を保護した。

なぜ信長は他の大名に先駆けて全国統一が出来たのだろうか。その一。信長は実行力に富み、鉄砲をいち早く取り入れるなど進取的な性格であった。その二。織田の領地尾張のある濃尾平野は日本有数の米作地で、経済地盤がしっかりしていた。その三。尾張は交通の要地であり、京都に近かった。等が挙げられる。信長の政策に、関所の廃止があることも覚えよう。

◎第二の秀吉の可能性をつぶした秀吉

信長の死後、いち早く明智光秀の首をとったのは後の豊臣秀吉であった(山崎の戦い)。また、対抗馬の柴田勝家らを賤ヶ岳で破り、信長の後継者としての地位を固めていった。こうして関白になった秀吉は、翌年に太政大臣になり、豊臣の姓を賜り、天下を統一した(1590)。政策としては、国内統一の妨げになるとして、キリスト教の布教を禁じ、宣教師を国外に追放した(バテレン追放令・1587)。その外は以下を参照。


★KEY-POINT

  1. 太閤検地…耕作者を定めて、年貢を納めさせる。中間搾取を認めないために、荘園が完全に消滅した。
  2. 刀狩令…農民・寺院から仏像をつくるためと称して武器を取り上げる。兵農分離と身分の固定化し、封建制度を強化した。
  3. 朝鮮へ侵略…文禄の役(1592)・慶長の役(1597)。豊臣氏の没落を早める。

◎仏教の影響がほとんどみられない、豪壮・華麗で雄大な文化

以上が安土・桃山文化の特徴。戦乱に生き残った大名や新興の商人たちがこの文化の担いて。

  1. 建築:姫路城・大阪城・安土城・聚楽第など雄大な天守閣、豪華な襖絵(障壁画)、狩野永徳らの画家。城の内部には書院造が取り入れられている。
  2. 絵画:狩野永徳とその養子狩野山楽が障壁画において活躍。ポルトガル・スペインの風俗を描いた南蛮屏風もつくられた。
  3. 茶道:堺の町人千利休により、茶の湯が茶道として大成される。「わび」の世界。
  4. 芸能:琉球から伝わった三味線にあわせて浄瑠璃が語られた。また、出雲大社の巫の阿国が始めたといわれる阿国歌舞伎が広まる。

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